コロナにはじまり、コロナで終わる – 終わることなんて到底想像できないけれど – 2020年はあらゆる意味で色々と考えさせられる1年だった。

緊急事態宣言が出た春は自分の周囲に静寂が訪れた。仕事はすべてキャンセル、もしくは先送りになった。オンラインメッセージが本当にぱたっとなくなった。精神的なダメージがなかったのは束の間の何もしなくていい時間を楽しめる心の余裕があったからだ。田舎を襲う産業ダメージは大きく、友人知人でも表には出さずとも悩んでいる人は多かった。

夏が来る前にオンラインミーティングがはじまり、夏の終わり頃からペンディングされていた仕事や新規案件が一気に動き出すことになる。オンライン移行現象ともいえる、それまでの主戦場をウェブ上に移したい人が急激に増えた印象だ。映像であれウェブサイトであれ僕のような職業は多忙になり、年末年始も仕事のスケジュールを調整するほど「仕事が終わらない日々」が続くことになった。(もちろん現在進行形だ。)あれどうしよう、これどうしよう、これ間に合うかな、というソワソワした気持ちがずっと続き、毎朝5:00に目が覚める習慣がついてしまった。息子が登校する7:30までにひと仕事する時間が持てたことはいい意味で捉えたい。仕事仲間とは「このプロジェクトが終わったら贅沢にのもう」などとお互いを労っている。年度末までこのルーティンが続きそうだ。

 

 

1年前のニュージーランド滞在は忘れられないほど楽しかった。この先まだまだ続く自分と家族の人生においてより一層楽しみが増えていくことを確信した旅だった。ああ、NZに活動拠点を作りたいなという思いはコロナによって保留というか再考を迫られたように感じたし、海外拠点づくりの規定は今後より厳しくなることが予測できる。住む場所や暮らし方について最近また妻とよく話す機会が増えていて、僕たち夫婦はまだどこか落ち着きがない。

息子が小学生になった。それとともにローカルの環境について変化がやってきた。学校社会がなければきっと付き合うことがないであろうタイプの人と付き合う機会があり、正直ストレスに思うシーンもあった。今更ながら「これが本当のローカルかあ。」と感じたりもした。自分の価値観や思考が正しいだなんてまったく思わないが、こういう人もいるんだなーと勉強になる。お互いを認め合いながら、あるいは上手にスルーしながら地域社会と共存していくことが田舎の町には求められる。

まるで他人事のような言い方だけどこういうのに疲れたり、そもそも合わないのにがんばって合わせようとする移住者はきっと大変だし、結果住み着くことは難しいんだろうなと思う。移住のコツはよほど人間関係にストレスを抱えない性格な人でない限り、目的に対して意思が強くなければとてももたないと思う。

正直言って島根の暮らしは安定してきた。6年の歳月。けれど安定してくると、また不安定になりたくなる変な感覚が僕にはある。明らかに馴れ合ってくる仕事が増えたし、けれどそれはここまでかけてきた時間や信頼関係や実績があってこその裏返しでもあるから十分心地よいのだけど、本当はもっと刺激的で、適度な距離感がある方がしっくり来るので、それを求めるには自分がまた未開の地を開拓するなり、努力なりが必要なんだと思う。心地よいところに居続けると既得権益に依存するロクな大人にならないのはよくわかっているので、間違ってもこの場所で安定を求める人間にはならないようにしたい。僕はきっと一生かかっても「土地の人」にはならないし、なれないだろう。

仕事仲間に「トッティはアシスタントつけないの?」と聞かれたとき、「今は全く考えていない。組織化したいわけでもないし、事業拡大したいわけでもないし、むしろストレスが増えることが自分でよくわかっているから。大体アシスタントつけると面倒なことをやってもらうことが大半で=ラクになったらもう一人に戻れなくなるのもいやだから。」「僕は一生現役でいくしかないし、85歳になってもカメラをやっているかもしれないし。だから健康で元気であることは最優先事項で、この先も一人でやれる環境をちゃんと作っていこうと思ってる。」みたいな話をした。仕事仲間たちは納得の表情を見せてくれたようだった。偽りなくそう思っている。まあ息子は例外だから彼を僕の仕事に巻き込んでいこうとは思っているけど。

1975年から45年経過した。50代もうっすら見えてきた。40代の10年間はきっとそのまま50代の自分の立ち位置を決めていくだろう。なので今年もゴキゲンに過ごしたい。

あけましておめでとうございます。昨年お世話になった方々と本年もご一緒できる機会が多くあることを嬉しく思っています。馴れ合うことなく、できる限り自分のパフォーマンスを上げていけるように精進したいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします。

2021年元旦

戸田耕一郎